読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あるまじろの読書日記

「なぜ、本を読むんだい?」「そこに本があるからさ!」興味のあるテーマは歴史とサイエンス。アラサー。関東在住。文章力が低く時折エラそうな書き方になりますが、どうかご容赦ください。( ̄ー ̄;

私のウォルマート商法~すべて小さく考えよ~

             

ウォルマートの名前くらいは誰でも耳にしたことはあるだろう。

ウォルマートはアメリカ最大にして、世界最大のディスカウントストアであり、同時に世界一の売上額を誇る企業だ。トヨタの倍の売上額と言えば凄さが分かるだろうか。

加えて、ウォルマートは創業してから50年ほどしか経っていない。トヨタ自動車創業80年、ソニー創業70年と比べると、ずっと若い会社なのである。

ウォルマート1号店開店からわずか28年で全米最大の小売店となり、35年後には全米最大の従業員数を誇る会社になっている。驚異的な成長スピードと言って良いだろう。

ウォルマートは知っていても、創業者のサム・ウォルトンを知っている人は少ないのではないだろうか。世界長者番付で一位を取ったこともあるらしいが、私は本書を読むまでは知らなかった。

世界最大の企業を一代で築き上げた男、サム・ウォルトンは決してビル・ゲイツスティーブ・ジョブズイーロン・マスクのような天才ではなかった。斬新な商品を発明したわけでもなければ、画期的ビジネスモデルを作り上げたわけでもない。

カリスマという感じもしない。人当たりが良くて、仕事好きな普通のおじいちゃんである。ただ仕事好きのレベルは普通ではなく、執念と言えるほどだったが。

ウォルトンは全米一の金持ちになったこともあるが、節約主義で暮らしぶりは極めて質素だったようである。どうも彼は心の底から仕事人間で、競争を楽しんでいたようだ。あとがきでこれまでの人生を反省しつつ、生まれ変わってもまた同じ仕事をしたいと回顧している。

サム・ウォルトンは商売の基本にとことん忠実だった。彼はライバル会社より経費を抑えてムダのない経営をすること、現場主義を貫き一店舗ごとに改善の方法を検討する(小さく考える)ことの大切さを説いている。

これは考えてみれば商売の基本だ。しかし、多くの企業がその基本から逸脱していく。ムダな広告にカネを使うようになったり、現場に顔も出さない幹部達の会議で方針が決まるようになったり、社長が豪遊し始めたり。ウォルトンのように、富豪になっても日々現場に顔を出し続ける人は少ないのではないだろうか。

ウォルマートにも問題はあるが、それでも多くのアメリカ国民の生活向上に貢献したことは間違いない。そしてそれを一代で築いたウォルトンの功績は大きい。

ウォルトンはそれを商売の基本を守ることと、仕事に対する情熱と執念によって成し遂げたのだ。

アイデアのつくり方

              

アメリカの広告業界では有名な人物であるジェームス・W・ヤングの著作の翻訳。広告業界の人を想定して書かれているが、他業界の人にも間違いなく役に立つ内容だ。

この本は正味60ページ程度しかない、とても薄い本である。しかし結論は非常にコンパクトにまとまっていて、無駄のない実践的な内容となっている。読んだその日から即実践可能だ。

21世紀はまさに情報が溢れる時代で、ネット検索や書籍で手に入らない情報はほぼなくなったと言って良い。南米の料理に興味があれば「南米 料理 レシピ」などで検索すれば、レシピから関連情報、関連書籍が山のように出てくるだろう。

しかしそんな時代になっても、アイデアの貴重さは変わらない。映画や漫画、アニメでも前例を打ち破るような作品は続々と登場しているし、テクノロジーの分野でもまだまだ進歩の余地がある。20世紀の初頭に、もうほとんどの科学的発見はされてしまったという結論を出した科学者がいたそうだが、それが間違っていたことは明らかだ。アイデアの種はまだまだ無数にあるのだ。

本書はそのアイデアにどのようにしてたどり着くかという創造の過程を理論化したものである。ヤングは「イデアとは既存の要素の新しい組み合わせに過ぎない」と言い切っている。そして、物事の関連性を見つけ出すことによってアイデアが生まれるとも。彼は5つのステップを提示している。

 

1.資料と知識を収集する

2.得られた知識を組み合わせる

3.時間を置いて寝かせる

4.アイデアが創造される

5.現実に合わせてアレンジする

 

ちなみに1の資料と知識とは、営業マンなら販売する製品とターゲットとなる顧客に関するものということになるが、それだけではない。同時にそれとは全く関係のない一般的知識の蓄積もヤングは勧めている。それはつまり「世の中のあらゆることに関心を持とう」ということである。

ヤングによると、優れた広告マンはみなあらゆる方面の知識をむさぼり食うような人間だということだが、これは広告マンだけに限らないと思う。政治家、科学者、作家、ビジネスマン、優秀な人は世の中の多方面に関心を寄せている。

『十五少年漂流記』や『海底二万里』でお馴染みのジュール・ヴェルヌは想像力の化身のような作家だが、著作を読む限り彼は間違いなく世の中のあらゆることに関心を寄せていた。SFの大家、ウェルズなども同様だろう。

今の世の中、すぐに役立つ専門的知識ばかりがクローズアップされ、一般的知識=教養の価値は低いように思う。しかし、こうした功利主義的な価値観の下では、新しいアイデアは出にくいのではないかと、本書を読んでつくづく感じた。

身に付けた知識がいつどこでどんなアイデアをもたらすかは誰にも分からないのだ。

昭和史

       

中学校や高校で近現代史をちゃんと教わった記憶がないのは自分だけだろうか。

カリキュラムの都合なのか、中学校の歴史の授業は現代に近づくほどスピードアップし、最後は尻切れトンボのように終わっていった。したがって満州事変ニ・ニ六事件安保闘争など重要事件のあらましをじっくり習った覚えがない。(僕がぼーっとしていただけの可能性も否定できないが)

高校の頃は世界史選択だったので、日本史はそこまで深くやらなかった。よって、僕はほとんど近現代史を知らないまま大人になってしまった。

日本の近現代史はとにかく暗いイメージが強い(特に昭和の前半)。明治維新後に急速に工業化して大国となった日本が少しずつ調子に乗り、対外戦争から滅亡への道を進んでいく過程を辿ることになるからだ。

NHKスペシャル『ドキュメント太平洋戦争シリーズ』は通して視聴したことがあるが、やはり気分は暗くなった。玉砕や神風特攻といった事実を直視するのは辛いものがある。

実際は近現代史は入試でそこまで細かく出題されるわけではないので、知らなくてもどうにかなるというのが実際のところだ。今の中高生を見ていても近現代史はみんな苦手にしているが、それでも入試は乗り切れる。そう、入試だけならば。

しかし大人になって感じるのは、やはり過去は学んで活かすものだということである。現在の問題の原因は過去にあり、未来へのヒントも過去に隠されている。歴史を学ぶことの意義はそこにある。過去に学ばなければ、何度でも同じ間違いを繰り返すことになる。それに、自国の歴史をよく知らないのはそれだけで恥ずかしいものだ。

歴史を学ぶことは、あらゆる人の役に立つ。特に日本を惨めな敗戦に至らしめた指導者の判断ミス、軍人やマスコミの暴走、行き過ぎた精神至上主義の背景を考えることは、組織のリーダーならば必ず収穫になると思う。

今でも旧日本の上層部と同じ失敗をしている会社はないだろうか。希望的観測と精神力頼みの危うい運営をしているリーダーはないだろうか。つまらないプライドのために引き際を見誤っていないだろうか。歴史は必ず教訓を与えてくれる。

著者の半藤一利さんは、長すぎず短すぎず、堅苦しい感じにならないように考えて執筆されたようだ。また、あまり偏った視点にならないように配慮された様子も伺える。上巻の最後に日本の失敗の本質について述べられているが、このまとめ方は見事という他ない。長年真摯に歴史を研究してきた人にしか書けないと思う内容だ。

昭和史を勉強するのにこれほど適切な本はないと思う。

素晴らしいので是非一度読んで欲しい。

人はなぜエセ科学に騙されるのか

       

COSMOS』をはじめとした宇宙関係のベストセラーで有名な科学者、カール・セーガンの書。タイトルから今一つ内容が想像しにくいが、「科学とは何か」「科学的とはどういうことか」がテーマである。科学者を志す人はもちろん、一般人にとっても大いに勉強になる本だ。

セーガンが言うには、科学的とは「あらゆる実験や観察によって検証されている」ことを意味する。それは誤りがないということではない。アインシュタインニュートンの理論でさえ、反証が出れば明日にでも覆される。その意味で科学は絶対ではない。

しかし迷信、オカルト、占い、スピリチュアルに比べれば、科学はより確かな答えを提供してくれる。それは科学が多くの批判や懐疑にさらされ、洗練されながら発展してきたからだ。

ガリレオは彼自身の緻密な観察を根拠として地動説を唱えた。キリスト教は彼を破門したが、結局は彼の説が正しかった。科学がその厳密さによって古い迷信を打ち破った例と言えるだろう。

一方で占いやオカルト、スピリチュアルなどに、厳密な検証を経ているものがあるだろうか。一昔前にその手のテレビ番組も流行したが、彼らの説は実験や観察で真偽を確認できないものばかりだった。

例の水素水マイナスイオンの効能も、科学的に検証されてはいない。納豆ダイエットはテレビ番組のねつ造とされて社会問題になったが、あれも科学的に検証されていない。「マーフィの法則」も面白いが、証明されてはいない。それでも、人はこうしたものを簡単に信じてしまう。

「〇〇教授が言ってるから正しい」

「ネットに書いてあったから正しい」

こうした権威を盲信する姿勢は科学的とは程遠いものだ。しかし人々は答えをすぐに手に入れたいあまりに、批判的に考えることなく安易に権威に屈してしまう。頭を使わず、考えないのである。

セーガンは、人々から科学的思考が失われていることについて警鐘を鳴らしている。彼は科学的思考について次のように述べている。

自己批判に努めたり、自分の考えを外界と照らし合わせたりするとき、人は科学しているのである。逆に、ご都合主義にはまり込んで批判精神をなくし、願望と事実とを取り違えているようなとき、われわれはエセ科学と迷信の世界にすべり落ちているのだ。

このメッセージの重さは、私自身も痛感している。大学院時代、雑なデータを元にして結論を導こうものなら、

それってキミがそう思い込みたいだけだよね

と突っ込みを入れられたものだ。それ以外にも、導出過程に穴があれば徹底して追及を受けた。当時は厳しいと感じたが、今思えばそれが「批判的に考える」ことであり「科学する」ことだったのだ。良い経験をさせてもらった。

こうした科学的思考法は、あらゆる場面において役立つ。競争に勝ちたい、成功させたいという意識が強すぎる時、人は自分に都合の良い証拠やデータしか見ない傾向にある。そしてこうした偏りこそが問題である。

物事の本質を追求するためには、常に批判的、客観的に思考する必要がある。物理学者のマイケル・ファラデーは次のように述べている。

人間には、思い通りの証拠や結果がほしい、まずいものには目をつぶりたいという強い誘惑がある。人は、自分に賛同してくれるものを喜んで受けいれる一方で、反対するものはなかなか認めようとしない。しかし良識の教えるところによれば、まさにその反対のことをすべきなのである。

 このファラデーの言葉は、非常に重い。「うまい話」にばかり耳を傾け、「耳に痛い話」を認めたがらないのは人間心理だ。騙されるのも「うまい話」を無批判に受け容れてしまうことによる。エジソンも指摘しているように、みんな思考の手間を省きたいのだ。しかし、こんな時こそ科学を支えてきた批判精神を思い出すべきだと思う。

科学は絶対の答えを与えてはくれないが、それでも科学的思考は最善の答えに近づくための合理的な方法なのだ。

入門経済思想史~世俗の思想家たち~

             

大人になってから、経済を学びたいと思った人は多いのではないだろうか。

経済関連のニュースを理解できるようになりたいとか、資本主義、社会主義共産主義のような、半ばイメージだけで語られている言葉について、本質を理解したいという思いを持っている人もいると思う。

ただ、残念なことに書店に並ぶ「経済」と名の付く本は大抵つまらない。やたら難しかったり、逆に簡略化しすぎていたりして、経済学がこれまで辿ってきた道のりを分かりやすく俯瞰できるような良書は少ない。

数少ない例外が本書だ。本書を読み通せば、間違いなく経済学のこれまでの歴史を見通せる。少なくともアダム・スミスリカードマルクスケインズなどの名前を出されても、うろたえることはなくなる。彼らの思想と業績が、必要十分な文章量で記されているからだ。数式などは登場しないので、分からない言葉を調べながら読めば誰でも読み通せる。   

       f:id:aramajiro:20161212223104j:plain         f:id:aramajiro:20161212223233j:plain

            アダム・スミス          デイヴィッド・リカード

 

何度か書いているが、私が経済学者の中で一番尊敬しているのはアダム・スミスである。彼の功績は、資本主義による社会発展の法則を体系化したことにある。彼は、各人がそれぞれの利己心(欲望)に従って行動することが、最終的に社会全体にとっての利益になるという革命的な思想を打ち出した。そして、スミスの予測通りに資本主義社会は成功を収めてきた。

天才スミスが想定していなかったのは労働者、資本家、地主層の対立だ。つまり、資本主義経済の発展の中で「誰かが取りすぎている」「誰かが損をしている」という問題が生じるようになった。リカードは暴利をむさぼる地主層をやり玉にあげ、労働者や資本家が豊かになれない原因と説明した。

 

      f:id:aramajiro:20161212223245j:plain       f:id:aramajiro:20161212223242j:plain

       カール・マルクス       ジョン・メイナード・ケインズ

                             

マルクスリカードよりさらに悲惨な未来を予言した。彼は資本主義を研究することにより、労働者が常に資本家によって搾取されること、そして最終的に資本主義が自滅することを証明しようとした。マルクスの予言は恐ろしいほどに当たっていた。

ケインズ世界恐慌がきっかけとなった大量の失業者により破綻しかけた資本主義社会を、公共投資による需要喚起という革命的理論によって救出し、資本主義社会を再び繁栄のレールに導いた。

 

詳しくは本書を読んで欲しいが、今騒がれているTPPの問題やブラック企業問題、貧富の格差問題なども、実は昔から論争されてきたことだったと分かる。天才たちはとっくの昔に気付いていたのである。

そして、天才たちは各々こうした問題に対する解決策も示している。詳しい内容については本書以外にも当たる必要があるが、彼らの残した思想を知ることは、未来に向けても大変勉強になると思う。

                          ※写真はWikipediaより引用

地底旅行

            

海底二万里』『八十日間世界一周』などでお馴染み、ジュール・ヴェルヌの作品。

ジュール・ヴェルヌの作品は、どれも自然科学に忠実である点に特徴がある。もちろんヴェルヌは19世紀に生きた人間なので、今から考えると誤った理論もあるのだが、それでも当時の最先端の科学知識をふんだんに盛り込んでいるので、理系の人間にも十分楽しむことができる。

『地底旅行』は、鉱物学の教授であるリーデンブロック教授とその甥アクセル、さらにアイスランド人の案内人ハンスが、とある錬金術師が残したメモを頼りに地球の中心を目指していく物語である。

今でこそ地球の中心に行けるわけがないのは常識だが、当時は必ずしもそうとは考えられていなかった。地球の年齢から成り立ちに関してもあらゆる説があって、未解明の部分が多くあったのだ。宇宙もそうだが、未知のものほど人の興味や想像力をかき立てるものはない。ヴェルヌが地底を題材に選んだのもそれが理由だろう。

物理学、鉱物学、地質学、生物学などの知識も至る所に登場する。その分野に詳しくない自分にはそれが正しいのかどうかすら分からないが、巻末の解説を読む限りはおおむね正しいようである。それにしても、当時によくぞこれだけの考証を行ったものだと感心させられる。現代のように、欲しい文献がすぐに手に入る時代ではないのだから。ヴェルヌの自然科学に対する敬意と、作品に対する意志を感じる。ヴェルヌの家はきっと自然科学に関する本で一杯だったに違いない。

地底については現代でもまだ未知の部分があるようで、特に極地の氷の地下には古代の生命体が生き残っている可能性は十分にあるらしい。そう考えると、ヴェルヌの地底旅行も全く荒唐無稽な話ではないのだ。この「あり得ない話だが、絶対ないとは言い切れない」という、空想の余地の残し方がヴェルヌは抜群に上手い。

ちなみに、ドラえもんの映画で『のび太と竜の騎士』という作品があるが、これは明らかにヴェルヌの『地底旅行』の影響を受けている。『のび太と海底鬼岩城』は恐らく『海底二万里』の影響を受けている。ヴェルヌはSFの先駆者として、宇宙から海底まであらゆるものを扱ったので、全く影響を受けていないものを探す方が難しいのだが。

とにかく、誰が読んでも面白いことは間違いない。ページを進める手が止まらず、500ページ近くを正味3日で読破してしまった。

完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯

             

前回とはチェスつながりで、同じくチェスの元世界チャンピオン、ボビー・フィッシャーの生涯を記録したもの。だが、輝かしいカスパロフの人生と比べると、フィッシャーのそれはあまりに悲惨だ。

ボビー・フィッシャーはアメリカに生まれて早くにチェスと出会うと、驚異的な集中力と没頭によってすぐに才能を開花させた。出回っていたチェスの棋書はほぼ全て読み漁り、強豪の大人達を倒し続けて神童と呼ばれた。一流プレーヤーの証であるグランドチャンピオンには当時史上最年少の15歳で選ばれるなど、早くからチェス界では有名な存在だった。

当時のチェス最強国はソ連で、英才教育の効果もあって優秀なプレーヤーを数多く輩出し、世界一のタイトルを独占していた。一方アメリカではチェスはあまり盛んではなく、あくまで愛好者達が趣味で指しているに過ぎなかった。そんな中から彗星の如く登場したのがフィッシャーだった。

若い彼がたった一人でソ連のプレーヤー達を次々と倒していく姿は、冷戦下のアメリカ人達のナショナリズムをも刺激し、チェスブームを巻き起こしていった。フィッシャーは1972年、アイスランドで行われた世界タイトルマッチで当時の世界チャンピオン、ボリス・スパスキー(ソ連)に勝利し、アメリカ人として初の(そして今に至るまで唯一の)世界チャンピオンとなったのである。(当時29歳)

この業績の偉大さを、チェスを知らない人達に説明するのは難しい。「たった一人で」と書いたが、実はチェスは団体競技の側面もある。対局中は1対1だが、それ以外の時間は仲間と集まって自由に戦略を練っても良いことになっている。当時のチャンピオンはスパスキーだったが、それ以外にも優秀なプレーヤーの多いソ連は、最高レベルの頭脳を結集してタイトルマッチに臨んでいたのである。

一方、ボビー・フィッシャーにはそのような仲間もおらず、実質一人でソ連チームと戦わなければならなかった。これはとんでもないハンデだが、それを覆してタイトルを獲得したことこそフィッシャーの偉業である。レベルが高すぎて、チェスの中身に関しては何も言えないが、世界のチェスプレイヤー達がこぞって称賛するほど芸術的だったという。チェス界のモーツアルトと言われたのは誇張ではなかった。

さて、ここまで輝かしいフィッシャーの経歴を綴ってきたが、輝かしいのはここまでだった。タイトルを獲得して以降(本当は幼少期からだが)フィッシャーは妄想に憑りつかれたり、奇行に走ったり、公然と暴言を吐くようになる。世界一となってから忽然とチェスの大会から姿を消し、放蕩生活を送るようになる。詳しくは本書を読んでほしいが、栄光を掴んだ男の没落劇にしてもあまりにも悲惨すぎて、読むに堪えないと言ってよいほどだ。天才にはありがちなことではあるが、普通に日常を生きることが彼には最も難しかったようだ。

自身の振る舞いが原因でフィッシャーは友人をほとんど失い、アメリカのチェス界からも永久追放処分を受ける。違法行為でついにはアメリカ政府からも重罪人として追われる身にまでなってしまい、世界各地を潜伏して生活するようになる。数少ないチェス仲間と練習のチェスは指していたようだが、大会に出場することはなく、最後はアイスランドで亡くなった。(64歳)つまりボビー・フィッシャーはチェスの世界チャンピオンとなり、誰にも敗れることなく死んだのである。

稀有の才能に恵まれた人間が、なぜこれほどみじめな半生を送ることになったのか。原因はフィッシャー自身の行動や発言にあるわけだが、やはりよくわからない。ボビー・フィッシャーと一番似ているのは、発明家の二コラ・テスラだろう。彼も天才的だったが、一方で妄想家であり、マッドサイエンティスト的だった。

フィッシャーの歪んだ精神は、幼少期のトラウマが原因とも言われている。確かにフィッシャーの幼少期は豊かとは言えない。母子家庭で、母親は優秀な人だったが、やはりどこか変人だったように思える。

周りの人間達にも原因があった。特に世界タイトルを取ってからフィッシャーの周りに集まってきたのは、金目当ての女や、フィッシャーの名を使って金儲けを企む人々ばかりだったからだ。フィッシャー自身に責任があるとはいえ、こうした部分もフィッシャーの人間不信に拍車をかけたように思う。

フィッシャーはチェス界の伝説だが、いくら天才でも、個性があっても、人に好かれなければ決して幸福にはなれないことを教えてくる存在だ。誰にも負けない個性や強みを持てとよく言われるが、個性と才能に恵まれた人間の生涯はそれほど華やかなものではない。

ちなみに、ボビー・フィッシャーの世界タイトルマッチに焦点を当てた最近の映画に『完全なるチェックメイト』がある。本書とあわせてこれもオススメだ。本も映画も、チェスを知らなくても楽しめる。