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あるまじろの読書日記

「なぜ、本を読むんだい?」「そこに本があるからさ!」興味のあるテーマは歴史とサイエンス。アラサー。関東在住。文章力が低く時折エラそうな書き方になりますが、どうかご容赦ください。( ̄ー ̄;

理系の子

サイエンス 読書

              

アメリカには高校生向けのサイエンス・フェアという科学コンテストがある。そのサイエンス・フェアに出場した数人の子供たちのエピソードが紹介されている科学ノンフィクションだ。

大人であろうが、子供であろうが、何か大きな物事を成し遂げる人たちはどこか変わっている。才能があることは間違いないが、それだけではない。彼らは「常識的」ではない。興味の対象はそれぞれ異なっていても、常人では考えられないような根気集中力を発揮して物事に向かう。

彼らはできるかできないか、世間的に良いことか、悪いことか、損か得かなどということは全く考えていない。ただ夢中になれるものを、興味の赴くままにやり続けているに過ぎない。彼らの原動力は純粋な知的好奇心だ。

さて、彼らのような「非常識な天才」はどのようにして育つのだろうか。本書の中には核分裂に興味を持って原子炉を家の庭に作ってしまった少年が登場するが、彼のエピソードから一つのことが分かる。それは、こんな危険な行為であっても、親を初めとして周囲が彼の行為を止めていなかったということだ。基本的には好きなようにさせていたのである。

よく考えれば、子供は誰に促されなくても勝手に色々なことに興味を持つ。飛行機、車、鉄道、宇宙、恐竜、昆虫、スポーツ、ゲーム・・・。親から勧められなくても、自然と興味を持っていく。そして、何の役にも立たないのに恐竜の名前を覚えたり、電車の名前を覚えたりする。これがいわゆる「知的好奇心」だ。きっと誰にもあったはずだ。

しかし、その知的好奇心は成長と共に消えてしまったりする。それは親や教師、身近な人たちから否定される経験が大きいようだ。禁止されたとか、やりすぎを咎められたとか、バカにされたとか、そういうことである。

また、学校のような狭い集団の中で、仲間に合わせようとする意識が好奇心を弱めることもあるだろう。(みんながゲームの話に夢中な時、仲間はずれを恐れて好きでもないゲームの話についていこうとする防衛意識)そうしてみんな恐竜博士や電車博士をやめて「常識的」になっていく。

僕も色々な科学者の自伝や足跡を読んでいるが、親兄弟が理解者だったり、身近に熱烈な応援者がいるケースが多いと感じる。つまり天才でも、誰からも認められることが無ければ才能は花開かないということだろう。

親がやるべきことは、きっとあれこれ手助けをするよりも、子供がやっていることを黙って見守り、励ますことなのではないだろうか。とは言うものの、ハマっているものがゲームやら昆虫や恐竜のような「将来役に立たないもの」だとしたら、親としては止めたくなるのだろう。

だが、何がきっかけになるかは分からない。ある時の「突き抜けた経験」がその後の人生を大きく変えていくかもしれないのだ。みんながノーベル賞は取れないかもしれないが、そっちの道の方が大人になって「やりたいこと探し」で悩むよりも楽しそうな気もする。