あるまじろの読書日記

「なぜ、本を読むんだい?」「そこに本があるからさ!」興味のあるテーマは歴史とサイエンス。アラサー。関東在住。文章力が低く時折エラそうな書き方になりますが、どうかご容赦ください。( ̄ー ̄;

史記(6)

             

徳間文庫の『史記』は1巻~5巻までは時代の流れに沿って出来事を追っていくが、6巻以降は一人ひとりの人物に焦点を当て、その行動や思想、信条を記している。

通常歴史書と言えば、皇帝や王、諸侯など世間に名の知れた人々に関する業績の記述がメインになる。現代では学校の教科書なども、基本的には著名な人物の業績を学ぶ作りになっている。

しかし、果たしてそれは本当の「歴史」だろうか。

国の盛衰興亡、戦争の勝敗、政策の成否などは確かに重大事だ。だが、それらの出来事を掘り下げていくと、必ず最後は「人間」にたどり着く。彼らが一体何を考え、何を信条として行動を起こしたのか。一人ひとりの人間に焦点を当て、人間像を記すことこそ本当に「歴史」を記録することではないのか。司馬遷はそう考えていたに違いない。

史記よりも厳密に中国の歴史に触れている書物は他にもあるが、史記ほど「人間」に焦点を当てて記述された歴史書は珍しい。司馬遷は歴史イコール人間の活動として捉えていたことが伺える。

しかも、司馬遷が取り上げた人物は極めて多様である。

皇帝、王、諸侯はもとより宦官、女、刺客、芸人、学者、商人、果ては遊侠の足跡まで記述しているのである。遊侠とは、早い話が反社会的人物である。国家に仕えることなく、時には法を平気で犯し、人も殺す。しかし義理固く約束には忠実で、仲間のためとあれば命を顧みず行動する親分のような人達のことだ。

史記はこんな者たちまで取り上げているのである。司馬遷のこの姿勢は批判の対象にもなっている。こんな身分の卑しい無頼を皇帝や王と並べて取り上げるとは何事か、というわけである。しかし、大勢の学者に批判されたこの点こそ史記の最大の醍醐味であるのも事実だ。

司馬遷は刺客や遊侠のような者達も歴史の一部だと考えたのである。彼らの行動を、歴史的に一定の価値あるものとして認めていたのだ。

士は己を知る者のために死すという有名な言葉がある。

これは史記に登場する言葉で、一族を皆殺しにされた主君の仇討ちのために人生を捧げた男の言葉である。つまり、自分を厚遇してくれた者のために命を賭けるべきだという、まさに「」の精神である。身分の低い人物だが、司馬遷はこうした人物からも学ぶところがあると考えて史記に記述したのだろう。

それだけではない。

自分の商売を、かの太公望孫子の功績と並べたてて自画自賛した商人の話がある。司馬遷のように国に仕える身からすれば無礼極まりない男と感じるはずだが、それでも司馬遷は彼を才覚によって財を成した優れた商人として評価している。

つまり司馬遷には、自分や国家にとって都合の良い出来事や人物だけを後世に伝える気はなかったのだ。あくまで「歴史」の記述にこだわったのだ。

この司馬遷の感覚には敬服せざるを得ない。