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あるまじろの読書日記

「なぜ、本を読むんだい?」「そこに本があるからさ!」興味のあるテーマは歴史とサイエンス。アラサー。関東在住。文章力が低く時折エラそうな書き方になりますが、どうかご容赦ください。( ̄ー ̄;

ノーベル賞受賞者特別寄稿・好きなことをやれ!!

伝記 サイエンス 読書

              

欧米のノーベル賞受賞者の伝記が詰まった本。何と集英社出版で、週刊少年ジャンプ特別編集である。20年以上前の古い本で、恐らくほとんどの人が知らない本だが、とても読み応えがあり価値の高い本だと思う。仮になくしたら、1万円払ってでも買い直すと思う。(amazonで見たら実際は中古で500円程度だったが)

この本を読みなおした理由は、今日の大隅良典東工大栄誉教授ノーベル賞受賞会見を見て珍しく怒りを覚えたからだ。もちろん、大隅教授に怒りを覚えたわけではない。僕も東工大で研究していた時期があるため、分野は全く関係ないけれども、受賞は素直に嬉しかった。

怒りを覚えたのは、とある記者に対してだ。彼は大隅教授に「教授の研究は何の役に立ちますか?」と質問したのだ。正直言って、あまりのレベルの低さに呆れ果てた。彼は一体どんな答えを期待して質問したのだろうか。大隅教授は大人の対応をしていたが、こんな質問には「分からない」「何かの役に立てばいいですね」としか答えようがない。

最近は何かにつけて打算的に、役に立つかどうか、金になるかどうか、成功か失敗かでしか判断できない人が増えているような気がする。やたらと人の感情や劣等感を刺激する広告宣伝の影響だろうか。純粋な学問探究はどんどん遠ざけられている。

なぜそこまで役に立つかどうかにこだわるのだろうか。すぐ役に立たないものには価値がないとでも言いたいのだろうか。いや、そもそも役に立つか否かの判断なんて今すぐにできるのだろうか。

例えば、古代ギリシャプラトンアルキメデスアリストテレスは自然や物事の本質を探究した。その中には正しいものもあったし、間違いもあった。しかし恐らく当時の人たちの役には立たなかったはずだ。円の性質がどうこう言ったところで金にはならないし、メシが食えるわけでもない。

では、この3人が残したものには意味がなかった?

そんなことはない。時代が大分後になって、彼らの研究をさらに進めた人々が新しいものを生み出しもしたし、彼らの間違いをもとにして新しい発想が生み出されもした。どちらにせよ、意味はあったと言えるのだ。

それに、この3人は社会の役に立つかどうかなんて考えていなかったはずだ。

彼らが人々の役に立つかどうかを考えていたなら、円の性質もイデア論も「どうでもよい」ではないか。彼らの中にあったのは純粋な探求心、好奇心、興味であり、それが思考の原動力だったはずだ。彼らは科学者ではないが、未知の物事を探究していく姿勢は科学者的だったと言える。

役に立たなくても、金にならなくても、失敗でも良い。

ノーベル賞のような栄誉ある賞が受けられなくても良い。

新しいことをやる人には、それだけでも十分価値がある。

今やっていることが高く評価されるかどうかは、運の要素もある。ニュートンアインシュタインのように生きている内に評価されなくても、コペルニクスのように後になってから評価されることもある。人々からの評価なんて移ろいやすいもので、結局は「分からない」のだ。

それは科学に限らず、人生そのものにしてもそうだ。その人間の一生の意味なんて誰にも分からない。だから人や社会からの評価に惑わされず、本書のタイトルの通り「好きなことをやれば良い」のだと思う。もちろん上手くいくとは限らないが、好きなことに思う存分熱中できたなら、それはそれで楽しい人生になるだろう。

物事を役に立つかどうかでという視点でしか見られないとしたら、何とも寂しい話だと思う。

 

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最後に、電磁気学の分野で大きな足跡を残した大科学者・マイケル・ファラデーのエピソードを紹介しよう。

ファラデーの研究が何の役に立つのかと質問した人に対して、彼はこのように切り返した。

 

生まれたばかりの子供は、何かの役に立ちますか?