あるまじろの読書日記

「なぜ、本を読むんだい?」「そこに本があるからさ!」興味のあるテーマは歴史とサイエンス。アラサー。関東在住。文章力が低く時折エラそうな書き方になりますが、どうかご容赦ください。( ̄ー ̄;

人はなぜエセ科学に騙されるのか

       

COSMOS』をはじめとした宇宙関係のベストセラーで有名な科学者、カール・セーガンの書。タイトルから今一つ内容が想像しにくいが、「科学とは何か」「科学的とはどういうことか」がテーマである。科学者を志す人はもちろん、一般人にとっても大いに勉強になる本だ。

セーガンが言うには、科学的とは「あらゆる実験や観察によって検証されている」ことを意味する。それは誤りがないということではない。アインシュタインニュートンの理論でさえ、反証が出れば明日にでも覆される。その意味で科学は絶対ではない。

しかし迷信、オカルト、占い、スピリチュアルに比べれば、科学はより確かな答えを提供してくれる。それは科学が多くの批判や懐疑にさらされ、洗練されながら発展してきたからだ。

ガリレオは彼自身の緻密な観察を根拠として地動説を唱えた。キリスト教は彼を破門したが、結局は彼の説が正しかった。科学がその厳密さによって古い迷信を打ち破った例と言えるだろう。

一方で占いやオカルト、スピリチュアルなどに、厳密な検証を経ているものがあるだろうか。一昔前にその手のテレビ番組も流行したが、彼らの説は実験や観察で真偽を確認できないものばかりだった。

例の水素水マイナスイオンの効能も、科学的に検証されてはいない。納豆ダイエットはテレビ番組のねつ造とされて社会問題になったが、あれも科学的に検証されていない。「マーフィの法則」も面白いが、証明されてはいない。それでも、人はこうしたものを簡単に信じてしまう。

「〇〇教授が言ってるから正しい」

「ネットに書いてあったから正しい」

こうした権威を盲信する姿勢は科学的とは程遠いものだ。しかし人々は答えをすぐに手に入れたいあまりに、批判的に考えることなく安易に権威に屈してしまう。頭を使わず、考えないのである。

セーガンは、人々から科学的思考が失われていることについて警鐘を鳴らしている。彼は科学的思考について次のように述べている。

自己批判に努めたり、自分の考えを外界と照らし合わせたりするとき、人は科学しているのである。逆に、ご都合主義にはまり込んで批判精神をなくし、願望と事実とを取り違えているようなとき、われわれはエセ科学と迷信の世界にすべり落ちているのだ。

このメッセージの重さは、私自身も痛感している。大学院時代、雑なデータを元にして結論を導こうものなら、

それってキミがそう思い込みたいだけだよね

と突っ込みを入れられたものだ。それ以外にも、導出過程に穴があれば徹底して追及を受けた。当時は厳しいと感じたが、今思えばそれが「批判的に考える」ことであり「科学する」ことだったのだ。良い経験をさせてもらった。

こうした科学的思考法は、あらゆる場面において役立つ。競争に勝ちたい、成功させたいという意識が強すぎる時、人は自分に都合の良い証拠やデータしか見ない傾向にある。そしてこうした偏りこそが問題である。

物事の本質を追求するためには、常に批判的、客観的に思考する必要がある。物理学者のマイケル・ファラデーは次のように述べている。

人間には、思い通りの証拠や結果がほしい、まずいものには目をつぶりたいという強い誘惑がある。人は、自分に賛同してくれるものを喜んで受けいれる一方で、反対するものはなかなか認めようとしない。しかし良識の教えるところによれば、まさにその反対のことをすべきなのである。

 このファラデーの言葉は、非常に重い。「うまい話」にばかり耳を傾け、「耳に痛い話」を認めたがらないのは人間心理だ。騙されるのも「うまい話」を無批判に受け容れてしまうことによる。エジソンも指摘しているように、みんな思考の手間を省きたいのだ。しかし、こんな時こそ科学を支えてきた批判精神を思い出すべきだと思う。

科学は絶対の答えを与えてはくれないが、それでも科学的思考は最善の答えに近づくための合理的な方法なのだ。